啄木・賢治の略年譜

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啄木・賢治の略年譜

石川啄木石川啄木(いしかわ たくぼく)[1886-1912]

「一握の砂」「悲しき玩具」などで知られる詩人。人生の機微の中で生まれた作品は、今もなお人々の心に迫り感動を与えている。盛岡市玉山区に生まれ、幼少時代を過ごし、青春時代・新婚時代を過ごした盛岡を愛し、望郷の想いを多くの歌に詠んだ。

明治19年
(1886)
2月20日
岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市玉山区日戸)の常光寺に父・一禎、
母・カツの長男として誕生。
「一」(はじめ)と名付けられる。姉にサダ、トラがいる。
一禎は同寺22世住職。
明治19年
(1886)
10月14日
岩手県岩手郡上田村新小路(現・盛岡市上田)に堀合節子(啄木の妻)誕生。
明治20年
(1887)
3月30日
父・一禎の転住により、渋民の宝徳寺に移る。
明治21年
(1888)
12月20日
妹・光子誕生。
明治24年
(1891)
5月2日
学齢より一年早く渋民尋常小学校(現・渋民小学校)に入学。
明治28年
(1895)
4月2日
盛岡高等小学校(現・下橋中学校)に入学。
明治31年
(1898)
4月25日
盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に128人中10番目の成績で入学。
明治32年
(1899)
2年に進級。堀合節子と知り合う。
明治35年
(1902)
10月1日
『明星』に白蘋(はくひん)の筆名で初めて短歌1首が載る。
明治35年
(1902)
10月27日
盛岡中学校を退学。
明治35年
(1902)
10月31日
友人や節子に見送られて上京。
明治35年
(1902)
11月9日
東京新詩社を訪問し、初めて与謝野鉄幹に接し、翌日は与謝野晶子に会う。
明治36年
(1903)
2月
病気療養のため渋民へ帰郷。
明治36年
(1903)
12月1日
『明星』に啄木筆名で詩「愁調」が載る。
明治37年
(1904)
10月31日
処女詩集『あこがれ』刊行のため上京。
明治38年
(1905)
5月3日
処女詩集『あこがれ』刊行。
明治38年
(1905)
5月12日
堀合節子を妻として入籍。
明治38年
(1905)
6月4日
盛岡市帷子小路(かたびらこうじ:現・中央通)で新婚生活を始める。
父母、妹・光子も同居。
明治38年
(1905)
6月25日
盛岡市加賀野磧(かわら)町に転居。
明治38年
(1905)
9月5日
文芸雑誌『小天地』刊行。資金難のため1号のみで終わる。
明治39年
(1906)
4月11日
渋民尋常高等小学校の代用教員となる。
明治39年
(1906)
12月29日
長女・京子誕生。
明治40年
(1907)
5月4日
渋民を離れ、妹・光子と函館に向かう。
明治40年
(1907)
6月11日
函館の弥生尋常小学校の代用教員となる。
明治40年
(1907)
8月18日
函館日日新聞社の遊軍記者となる。
明治40年
(1907)
8月25日
函館大火で勤め先を失う。
明治40年
(1907)
9月13日
札幌に向かい、16日から北門新報社に校正係として勤務。
明治40年
(1907)
10月1日
小樽日報社に勤務。
明治41年
(1908)
1月22日
釧路新聞社に勤務。
明治41年
(1908)
4月5日
東京での文学活動を目指して航路、釧路を発つ。
明治41年
(1908)
5月4日
東京本郷区、森川町(現・文京区本郷)赤心館に下宿。
明治41年
(1908)
9月6日
金田一京助の厚意で下宿を本郷の蓋平館別荘に移す。
明治41年
(1908)
11月5日
『明星』100号にて終刊。
明治42年
(1909)
1月1日
『スバル』創刊。発行名義人となる。
明治42年
(1909)
3月1日
東京朝日新聞社校正係に採用され、出社。
明治42年
(1909)
4月7日
ローマ字日記を書き始める。
明治42年
(1909)
6月16日
妻子を迎え、住まいを本郷の喜之床2階に移す。
明治42年
(1909)
10月2日
節子、義母との確執から京子を連れて盛岡の実家に帰る。
明治42年
(1909)
10月26日
節子、金田一京助と新渡戸仙岳の説得で啄木の元へ戻る。
明治43年
(1910)
10月4日
長男・真一誕生。しかし生後24日目に永眠。
明治43年
(1910)
12月1日
歌集『一握の砂』刊行。
明治44年
(1911)
8月7日
小石川区久堅町(現・文京区小石川)へ転居。
明治45年
(1912)
3月7日
母・カツ永眠。
明治45年
(1912)
4月13日
父・一禎、妻・節子、若山牧水に看取られて、啄木永眠。
明治45年
(1912)
6月14日
次女・房江誕生。
明治45年
(1912)
6月20日
歌集『悲しき玩具』刊行。
大正2年
(1913)
5月5日
妻・節子永眠。
昭和2年
(1927)
2月20日
父・一禎永眠。

宮沢賢治(みやざわ けんじ[1896-1933]

「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」などで知られる詩人・童話作家。作品に託された深い世界観は、現代においても強い支持を得ている。中学校から高等農林学校までの青春時代を過ごした盛岡を「モリーオ市」として作品にも描いた。

明治29年
(1896)
8月27日
岩手県稗貫郡里川口村川口町(現・花巻市豊沢町)に誕生。
父は政二郎、母はイチ。
明治36年
(1903)
4月1日
花巻川口尋常高等小学校入学。
明治39年
(1906)
鉱物・植物・昆虫採集、標本作りに熱中(小学4年生)。
明治42年
(1909)
4月5日
受験のため母と盛岡市紺屋町三島屋旅館に宿泊。
盛岡中学校入学。
父に伴われて寄宿舎・自彊寮(じきょうりょう)に入る。
招魂社(現・盛岡八幡宮)参拝。
明治43年
(1910)
6月18日
植物採集岩手登山隊に参加。初めて岩手山に登る。
明治44年
(1911)
5月15日
小岩井農場へ遠足。この年から短歌の制作を開始。
大正元年
(1912)
5月27日
仙台方面修学旅行(狐禅寺から川蒸気船で石巻に至り、初めて海を見る)。
大正元年
(1912)
11月3日
『歎異抄』を読み、感動する。
大正2年
(1913)
3月12日
舎監排斥運動で寮を追われ、清養院へ下宿。
大正2年
(1913)
5月21日
~27日
北海道修学旅行(函館~小樽~札幌~室蘭)。
大正3年
(1914)
3月23日
盛岡中学校卒業(第28回生)。
大正3年
(1914)
4月中旬
岩手病院に入院(5月中旬退院)。
大正4年
(1915)
4月6日
盛岡高等農林学校入学(農学科第二部)。
寄宿舎に入る(土曜午後、日曜日は盛岡郊外を散策)。
大正5年
(1916)
3月
修学旅行で東京、京都、奈良、大阪、大津へ。
大正6年
(1917)
4月2日
下の橋際の玉井郷方家に弟・清六と下宿。
大正6年
(1917)
7月1日
同人誌『アザリア』創刊(「ちゃんがちゃがうまこ」8首発表)。
大正7年
(1918)
4月1日
盛岡高等農林学校卒業・研究生となる。童話を書き、弟妹に聞かせる。
大正9年
(1920)
5月20日
盛岡高等農林学校研究生修了。
大正10年
(1921)
1月23日
突然上京。8月中旬、妹・トシの病の知らせを聞いて再び花巻へ戻る。
大正10年
(1921)
12月3日
花巻にて稗貫農学校(県立花巻農学校の前身)教諭となる。
大正11年
(1922)
心象スケッチ『くらかけの雪』(1/6)、『小岩井農場』(5/21)などを書く。
大正11年
(1922)
11月27日
妹・トシ永眠。
大正12年
(1923)
7月31日
生徒の就職依頼のため青森・北海道経由で樺太旅行に出発。
大正13年
(1924)
4月20日
心象スケッチ『春と修羅』自費出版。
大正13年
(1924)
12月1日
イーハトーヴ童話集『注文の多い料理店』東京光原社より出版。
大正14年
(1925)
2月9日
森佐一編集『貌』の同人となる。
大正14年
(1925)
7月
草野心平編集『銅鑼』の同人となる。
大正15年
(1926)
3月31日
花巻農学校を依願退職し、花巻市下根子桜で農耕自炊の生活を始める。
羅須地人協会を設立。
昭和3年
(1928)
12月
急性肺炎のため自宅療養。
昭和6年
(1931)
2月
東北砕石工場技師となる。
石灰肥料の営業で盛岡を精力的に回る。
昭和6年
(1931)
11月3日
「雨ニモマケズ」を手帳に書く。
昭和7年
(1932)
3月10日
童話『グスコーブドリの伝記』発表。
昭和8年
(1933)
病床で童話や詩の推敲を続ける。
昭和8年
(1933)
9月21日
37歳、午後1時30分永眠。
国訳妙法蓮華経1000部を知友に贈るようにと父へ遺言。
平成13年
(2001)
6月12日
弟・清六永眠。
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