盛岡市の歴史的街並み活用にかかる調査事業
1 盛岡市の歴史的街並みの現況
盛岡のまちづくりは、慶長2年(1597年)に、三戸に居を構えていた戦国武将の南部氏が、現在の盛岡に領地経営の居城を移すため、北上川と中津川、雫石川の合流点にある花崗岩大地に築城を開始したことにはじまる。築城とともに周囲の城下町の造成もすすんだ。しかし、川の合流点ということもあり、度重なる洪水や湿地の改良などで城下町の原型が出来たのは1600年代半ばの寛永年間と言われている。
また、盛岡は城下町としてばかりでなく、奥州道中、宮古街道、遠野街道、秋田街道等の道の結節点、北上川舟運の起点という北東北の交通の要所として、江戸時代後期にかけて発展した。
しかしながら、明治以降の変革によって、盛岡城の取り壊し等が行われ、城下町の面影は様変わりをし、その後の度重なる大火事と洪水により、わずかに中・下級武士や足軽屋敷を残すのみとなっていた。さらに、これらの街並みは近代化に伴って昭和40年代には市街地から殆ど消失し、街道周辺地域に位置する鉈屋町、大慈寺町(P5参照)界隈にわずかに城下町の下町風情を感じさせる街並みを残すだけの状況となった。また、江戸時代の町家は、土蔵や耐火構造の商家を除き、ほとんどが昭和初期までに消失している。
現在、市内に残っている歴史的建造物は、江戸末期以降に建てられ、大火・洪水禍を免れた土蔵や商家の一部と、明治から昭和前期にかけての近代化遺産ともいうべき洋風建築物、そして今回調査対象とした明治・大正期及び昭和前期に建てられた固有の建築形態を有する「盛岡町家」である。
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2 市全体の歴史的街並みの状況と歴史的建造物の保存活用状況
盛岡市街地の主要な歴史的建造物の用途別分布図は、次の通りである。
この地図は平成13年建築士会「歴史的建築ハンドブック」の盛岡地区106物件を地図上に用途別にプロットしたものである。

上の橋から中の橋、内丸地区に近代化遺産が集中し、町家は、市街地周辺部の本町の一部、南大通、鉈屋町地区に多く残っていることがわかる。
また、市街地の縁に昭和初期の住宅群が残っている。
昭和51年の保存建造物指定制度の施行により、現在24物件が指定・保全されており、点の保存としては効果があった。しかし、その後の中心市街地の道路整備やビルの建設ラッシュの中では、面的な街並み保存には結びつかなかった。
特に、城下町固有の町家は、明治初期には三千軒近くあったが、現在はその10%強にまで激減し、各所に点在している状態である。
平成15年、放置されていた旧九十銀行本店が、「快適観光空間整備事業」(国土交通省)の支援で、「もりおか啄木・賢治青春館」として整備された時期に、八幡町消防番屋、岩手県公会堂等の保存の声も高まり、さらに盛岡の固有資源として、盛岡町家、その街並み保全に向けた市民運動が注目されるようになった。
3 盛岡町家について
(1)都市住居形態としての「町家」
城下町として町割されて400年のうち、昭和30年代までは、町家という都市住居形態は、盛岡庶民の暮らしとともに、城下町盛岡の代表的な街並みの一部であった。
盛岡の町家は、町人の食住一体の住まいとして成立した。密集して住まう住居形態で現代に言うと横に連なる集合住宅といえる。間口が狭く奥に長い短冊状の町割(区画)に、街路に接して母屋を配し、表から裏に土間を通す。その土間に沿って、見世(みせ)、常居(じょい)、座敷、と部屋取りされ、その奥に縁側、坪庭、蔵が並ぶ構えを基本形としている。(P8平面図参照)この土間の位置は街区の中では、街路から向かって右か、左側にルール化され、居室同士が隣接することはなく、程よくプライバシーを守っていた。
町家は、江戸後期には成熟し、ある程度システム化された。そして、伊勢神宮の20年撰宮のように、災害の後も速やかに再建され、昭和前期まで繰返し造られてきた。
同時に、土地の形状、永年培われてきた生活習慣、密集して住むことのルールがそうさせてきたのであろう木造ならではの知恵がそこにあり、木造文化としての持続可能、サスティナブルな営みがあった。
(2)盛岡町家の歴史
江戸時代の中期には街道筋等の主要な道に面する町家は二階建てを義務付けられた。社会が安定してくると、間口は町割当初の7間から分家、盛衰の変化の中で最小一間半から十間を超える大店もうまれた。これは、町人の税金、町内諸経費が「小間居割」つまり店構えの表間口の幅を基本にかかったことも影響していたと思われる。
一方、明治に入ると、普請、身分の自由化、技術の進歩、家族の増加等、一般に贅も尽くせるようになり、棟は高く、全体的に大きな構えとなる。
また、明治後期以降には、ガラス戸の普及により、開放下屋が内土間化して閉じる外観に大きく変化した。
大正、昭和に入ると表だけ洋風化した町家が出現する。さらに店をやめて住まい専用になると、店の部分が応接間、客間として利用され、土間に玄関がつくられ、板廊下になる場合もある。昭和中期まで全体の構えはあまり崩れず町家は造られ続けた。
(3)盛岡町家の特徴
外観の特徴は、次の鉈屋町の写真のように、下屋付きで、道路と平行に屋根の棟を持つ平入り(ひらいり)がほとんどである。弘前、黒石、秋田県境北部にみられる「こみせ」(木造アーケード)から変化し、屋内土間化した可能性が高い。「こみせ」の一部が残る町家では、馬検場があった時代に、道一杯にならぶ馬を避けて軒下を歩いた話が残っている。
また藩制時代の光台寺古絵図に描かれた仙北町の街並みは明らかに「こみせ」を示し、下屋は、開放されている。
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内部の特徴は、表通りに面する「見世」(現代の「店」部分)に続く「常居」(じょい)である。(P8平面図参照)この「常居」は主人の間、家の中心として、神座も兼ね、立派な神棚があり、基本的に二階が乗ることはない。天井はなく吹き抜けとなり、組み上げられた小屋組、天窓をもち、高い空間と木組は荘厳な空間を生み出している。
また、神棚は南向き、もしくは東向きを基本とし、「ろーじ」(通り土間)はこれに対する位置に作られる。これは、街区のなかで、各町家の「ろーじ」と居室が交互に並ぶことになり、木造の薄い壁で接する家境でもプライバシーを保てる都市住宅を生み出した。
古いタイプでは、常居に続いて「だいどこ」(台所とも表記されるが、現代で言う「食堂」にあたり、水周り、竈は通り土間に位置する。)があるが、現在残る町家では「座敷」となり、「だいどこ」は「ろーじ」の奥の坪庭に突き出すように水廻りとともに位置するようになった。
また、「常居」は町家を表(店)と裏(家)に空間的を二分し、表の二階は店の雇い人のへや、臨時の宿、倉庫等に利用され、奥に二階を持つ場合は家人また女衆の部屋等に利用されてきた。
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(4)「盛岡町家」の現在
戦災にほとんど遭わなかった盛岡でも、戦後の都市防災対策が耐火・防火に偏ったこともあり、住宅政策としても庭付き住宅が重視され、伝統的な都市住居形態としての町家は、無視同然にされてきた。
また、文化財としても、江戸期に資力を尽くしたものの価値が重要視され、伝統的な街並みをかたちづくる小さな町家群は、顧みられることがなかった。
近年、町家は急速に解体されている。老朽化が進み、建替え時期と考えてのことだろうが、「現代的でない」「古さ故の寒さ」も原因であろう。
また、庭付き戸建て指向で、奥に細長い敷地は嫌われ、解体後、空地化するところも多い。
盛岡独特の伝統的な建築物の価値を見直し、それらを保全していくためには、市内全体の町家の残存状況を把握し、改めて盛岡町家の構え、意匠について調査する必要がある。
今回の主な調査地である南大通二丁目、三丁目、鉈屋町、大慈寺町界隈等では、詳細に渡る調査を実施し、今後の保存活用方策の検討へとつなげることとした。
4 街並み保存活用にかかる課題と調査事業に向けて
(1)課題のまとめ
歴史的建造物の保存活用による都市観光推進の取組として、盛岡では前述の「歩いて楽しむまちなか観光」を目指す観光推進計画(H11〜20)に基づき、近年、市域に点在する建物の観光見学施設への活用を進めてきた。本調査対象地域の盛岡町家を中心とした町並みの保存活用については、長い間、観光資源としては評価されてこなかったが、最近の市民運動の盛り上がりや盛岡ブランドの確立による新たな魅力発掘の動きが活発化する中で、急速に新しい観光資源として注目され始めてきている。
しかしながら、これまでそういった議論が進んでこなかったために、観光資源としての有効性について、実証記録の蓄積も住民ニーズの把握も不足していることが否めない。今後、観光活用に向けた環境整備を行うためには、これらの不足部分を補う調査、実証実験等を実施し、それをもとにした提言が必要である。
(2)調査事業に向けて
本調査事業は、地域資源を生かした集客イベントの実証実験をはじめ、イベント参加者、地域住民、観光客へのアンケート調査を実施し、また、建築家等の専門家には町家や街並みの保存に関する専門調査を依頼した。
こうした調査をもとに、「都市観光推進にかかる歴史的街並みの保存活用計画」の提言(案)を策定した。この提言を、盛岡市における歴史的街並み保存活用のための施策の指針として活用するとともに、市民活動・民間活動の参考として供していきたい。








